こんにちは。アニメと声優さんが大好きな20代女子、ふーみんです!
今日から しばらく雨続き・・・(´・ω・`) 昨日のうちに シクラメンの植え替えを 終えておいて、ホッとしていますε-(´ω`*)
先日、映画『聲の形』のDVDを観て、あらすじを まとめたので、今回は感想と考察を書いてみます。
それではご覧ください!
☆この記事の内容☆
映画『聲の形』のあらすじ
まず初めに、以下の記事↓には、『聲の形』の あらすじを時系列ごとに まとめました。よろしければ、一度ご覧ください。
ただ、今回も映画のあらすじが かなり長いので、もう内容を知っている方や、「長文は読みたくない!」という方は、あらすじの記事は読み飛ばしていただいても 大丈夫です。この後の 2.『聲の形』を観ようと思ったきっかけの部分を ご覧ください。
『聲の形』を観ようと思ったきっかけ
以前、『君の名は』の感想を書いたときには、「宣伝用の映像が頭をグルグルしていて、それがトラウマだったんですよ!」と言いましたが、『聲の形』に対しては そこまでトラウマのような先入観はなく・・・
『君の名は』を観終わった後で いろいろ調べていたら、「『聲の形』もオススメだよ!」というつぶやきを見て、「そっか、マンガが書店にも並んでいるし、観てみよう!」という軽~~い気持ちで観てみました。
そのため、『君の名は』を観るのは ずっと渋っていましたが、『聲の形』は わりとあっさりと(?)観始めました。
そうしたら・・・軽い気持ちで観た作品の方が、文学的な内容だった~!!Σ(゚Д゚)
セリフでたくさん話すよりも、映像や音楽などの細かな演出で語る作品でした。初めは理解が追いつかなくて、何回か観直しましたよ。本当に奥が深いと言うか、観れば観るほど新しい発見があって・・・
山田尚子監督の作品は、『けいおん!』など 好きなものが たくさんありますが、この作品も大好きになりました!
感想・考察
『聲の形』について、大体の内容が入ってきたら、いよいよストーリーの感想・考察を書いていきます(`・ω・´)ゞ
個人の感想を書いているので、文章に若干 偏りがあるかもしれません。ご了承ください。
『他者』そのものの象徴としての『声』
最初の小学校時代に、将也が硝子をいじめるシーンがあります。この いじめの描写が、わりとリアルで不快なものなので、ここで「うわっ、何、このモヤモヤする話は・・・」となってしまう人も多いでしょう。その感覚は正しいとしか言いようがないのですが、しかし、その感覚を持たせることが、成長した将也が背負っていく『罪の意識』に説得力を持たせるために必要なことなのだと思います。
この小学校時代の描写は、非常にテンポよく進みます。その上で、核となる部分は決して逃さない作りになっていて、再構成として本当に素晴らしいです。特にすごいと感じたのは、冒頭です。ほとんどセリフを使っていません。映像と音楽だけで、将也が日常に退屈していて刺激を求めていること、そして硝子との出会いによって 将也の日常に重大な変化が訪れたことなどが、映像的な形で実に鮮やかに提示されていました。
この小学校時代は長くはないのですが、語るべきことが本当にたくさんあります。まずは何と言っても、硝子を演じる早見沙織さんの演技が素晴らしいです。聴覚障害を抱えた方というのは『聞く』だけでなく、『話す』能力にも問題を抱えていることがほとんどであり、本作の硝子も上手く話すことが出来ず、発声しようとすると どうしても『うめき声』に近くなってしまいます。早見さんは こうした『聴覚障害者の声』をよく研究し、生々しく演じています。
全然関係ないですが、私が早見さんを 初めて認識したのが『07-GHOST』の ラゼットだったので、当時の彼女は高校生でした。ラジオで「修学旅行に行って来ました」という話を聞いていたので、成長した早見さんの演技には感慨深いものを感じます。年齢も私より少し上だけど けっこう近いので、親近感もあるのでしょうね。
さて、話がそれました。
繊細で柔らかな線の 可愛らしいキャラクターや 耳に優しい音楽、そして色とりどりの美しい背景、アニメとして非常に快い世界が創り上げられているからこそ、硝子の『声』が持っている異物感は強調され、観るものには ある意味で『ギョッとする』感覚を与えます。特に授業中、先生に指示されて硝子が教科書を読むシーンは、初めて観客が硝子の『声』を耳にする瞬間であり、かなりショッキングだと言えます。
この作品における『聲(声)』は、一般的な『他者とのコミュニケーション手段』としてのみならず、『他者』そのものの象徴として、非常に重大な役割を担っています。細やかな演出と早見さんの的確な演技によって、鮮やかな印象を残す硝子の『声』は、彼女の『他者性』を明確に表しているように感じます。
そのため、直後に硝子の『声』をネタにして からかう将也の無神経さと、子供特有の残酷さが際立ちますが、同時にわずかな安心感を与えてくれます。気まずい気持ちになったからこそ、将也の無神経な行動に、少しだけホッとしてしまいました。
また、合唱コンクールの練習風景でも硝子の声の異質さ、『他者』としての異物感が強調されることで、「これは いじめの標的になるのも わからなくもない・・・?」という嫌な感覚が生まれます。つまり、恐ろしいことに本作は瞬間的に『いじめっ子の視点』に、もっと言うと『他者を差別する者の視点』に観客を同化させるのです。この時に刺さったトゲは、映画を観ている間中、観客の心に残り続けます。
そして、将也は硝子をいじめ続けて行きますが、『子供のイタズラ』では済まされない行為をきっかけにして、大きな代償を支払うことになります。特に親子で硝子の母、八重子に謝りに行くシーンで、将也の母、美也子が耳に傷を負うシーン、このねじれた『因果応報』っぷりのキツさと言ったら すごいです・・・。ここ、原作では非常にさりげなく描かれてたようですが、映画ではかなり強調されていましたね。たったワンシーンで、人々のドロドロに絡み合う心情を表現する手腕は見事と言う他ありません。
そして二人は再会します。将也が衝動的に行った「友達になれるかな」の手話に対して、硝子が衝撃を受けたことをきっかけに、二人は少しずつ距離を縮めていきます。さらに将也の周囲の出会いを通じて、徐々に壊れてしまったものを回復していこうとします。その過程が山田尚子監督の精緻な演出によって、柔らかい光と色彩の中で みずみずしく描かれていきます。
それぞれのコミュニケーションの形
個人的に、今作は いじめや聴覚障害といった難しい問題を用いて、一歩踏み出すことの大切さと難しさを伝えたかった作品なのかな、と思いました。
いじめを受けて精神的に人と距離を置くようになってしまった将也と、障害のため、繋がりたくても距離が出てしまう硝子。その二人と周辺の人物を通じて、コミュニケーションの様々な形を描いて行きます。各々が一歩を踏み出し、他者とのコミュニケーションを紡いで行く。その過程の青さや真っ直ぐさが、むず痒くも心地よく感じられました。
全体として、たった一人のイレギュラーから生まれるぎこちなさの表現がリアルすぎて、怖さすら感じさせるほどでした。友情って、確かに簡単に壊れる気がします・・・。
一歩を踏み出して新しい世界へ
『聲の形』を観て私が特に感じたのは、『一歩を踏み出すことの難しさ』です。コミュニケーションは、相手がいて初めて成り立つものであって、自分の中に閉じこもってしまっては、一生 一人のまま。
そして、環境によって与えられる人間関係もありますが、そこでも自分から心を開いていかなければ コミュニティーの形成は難しいと感じます。
将也は いじめをしていた経歴が知れ渡っているという ハンデの中で、一人孤独に学生生活を送っていましたが、ある日 自転車を強奪されかけていた永束を助けることによって、学校内での新たな居場所を得ます。
また、硝子がいた手話教室にも自ら出向かなければ、硝子と再会することは出来ませんでした。そうやって様々な衝突などを乗り越え、最後に将也は自らの殻を破り、世界を一転させます。全ては自分から、一歩踏み出してみた結果なのですね。
将也と硝子、双方の贖罪
また、『聲の形』は将也と硝子、それぞれの罪滅ぼしの物語とも考えられました。
2人はそれぞれ「いじめで他者を傷つけた」「自分の障害のせいで他人に迷惑をかけた」 という罪悪感を抱いています。
そこで、将也が考えた罪滅ぼしは、小学校時代に紛失させた硝子の補聴器代の返済。返済することで、いじめられっぱなしの空虚な人生の幕を閉じようと、自殺を考えます。
しかし、この自殺は母によって止められ、途方にくれる中、彼は硝子と再会します。昔傷つけた彼女を楽しませることで、自分の罪を償おうと考えます。
それに対して、硝子は聴覚障害で他者と上手くコミュニーケーションが出来ないことに対し、罪の意識を感じています。自分の存在が他人に面倒をかけるなら、という意識が爆発した結果、ベランダから身を投げることを選びました。
この自殺も将也が阻止します。代わりに、将也に大怪我を負わせてしまい、再び大きな罪の意識が生まれます。
しかし、二人は運命的に惹かれあい、最終的に将也から「君に俺が生きるのを手伝ってほしい」と言われます。二人は ある種の共犯関係になり、共に生きていくことを約束しました。
一時は死をも決意した二人が、こうして共に生きて行くという約束するのは、感慨深いものがありました。
ふんわりとしたタッチの絵からは想像も出来ないほど、いろいろと辛い問題を リアルに描かれていて、思わず目を背けたくなるものが ありますが、その中で もがいている 登場人物たちの姿を見ていると、自然と応援したくなりました。
『補聴器で拾う音』を体感
また、『 聲の形』の大きな魅力になっているのは、牛尾憲輔さんによる美しい音楽です。
劇中の音楽に耳を澄ましてみると、ピアノのペダルを踏むときの「カタッ」という音や、「サーッ」という雑音が聞こえてきたりします。これは、まるで『補聴器をつけている人が聞く音』と同じように感じます。
補聴器は構造上、聞きたい人間の声だけではなく、どうしても その他の雑音も増幅して拾ってしまいます。牛尾さんは、この補聴器の特性に注目して、ピアノを解体し、中にマイクを設置することで、雑音を含んだ音を録音しました。
劇中の音楽で、聴覚障害を持ち、補聴器をつけている人が『聞いている』ものを実感出来る・・・これは ものすごいことなのでは ないでしょうか。
『君の名は。』のRADWIMPSの楽曲に感動した人にも、ぜひこの楽曲の数々を堪能してほしいです。「こんな音楽の形があるんだ!」と映画音楽の多様性、『聲の形』という作品と この楽曲が、いかにマッチしているかを実感できるでしょうから。
また、牛尾さんは画家のジョルジュ・モランディの静物画の『影』、あるいはヴィルヘルム・ハンマースホイの『光』の描き方などを、音へコンバートするという アプローチもされていたそうです。
さらに、劇中ではJ.S.バッハの『インヴェンション』が使われています。
この曲を用いた理由は、物語が『主人公の将也が 外の世界に触れていくための練習』という側面を持っているから なのだそうです。劇中で『インヴェンション』がどのように使われているかは、サウンドトラックを聴くなどして、ぜひ確認してみて下さい。
お互いに響き合う『エラー』
おそらく、『聲の形』に対して最も賛否が分かれるのは、まさに将也と硝子の関係性ではないでしょうか。硝子が将也に対して、好意を越えた恋愛感情を抱いてしまうという点について、「いじめられていた子が、いじめていた相手を好きになるなんて ありえない」「いじめを舐めすぎ」といった批判の声が上がっているようです。そうした批判が起こること自体は まっとうですし、障害という繊細な題材を扱っている以上、何らかの批判的な見方は必要だと思います。「どうしても許せない」というような強烈な拒否感を抱く人がいるのも自然なことでしょう。
ただ、ここで重要なのは、本作における『恋愛感情』というものが、一種の『エラー(過ち)』として描かれている点です。少なくとも恋愛の観点は、単にキラキラした『良きもの』としては決して扱われていません。
「友達になれるかな」発言が、二人の関係に決定的な変化をもたらします。しかし、それは過去の罪によって、硝子に大きな負い目を感じている将也が 衝動的に差し伸べた『手』を、同じく将也に対して 好意と嫌悪の入り混じった、非常に複雑な想いを抱いていた硝子が、うっかり取ってしまったことで引き起こされた『エラー』だと思います。私は、「これが二人の関係の本質なのでは・・・」と考えています。
『聲の形』には、一般的な『正しい』人間は一人も登場しません。みんな何らかの形で、内面に欠陥や欠落、邪悪さを抱えています。一見して、聖人君子に見える硝子でさえ、完全な人間ではなく、この『エラー』を一つのきっかけにして、袋小路に迷い込んでしまいます。そんな『聲の形』だからこそ、まるで『過ち』のように始まった2人の関係が どのように発展していき、どんな結末を迎えるのかが重要になって来ます。
逆に言うと、「いじめの被害者(しかも障害者)が いじめた加害者を好きになるなんて絶対ありえない」という考え方は、倫理的には正しいでしょう。しかし、硝子という固有の人格をもった存在を「被害者ならこう思うにちがいない」「障害者ならこうあるべきだ」という枠に押し込め、それこそ彼女の『声』を奪ってしまう危険性もあるのではないか と感じます。
将也を好きになってしまったことは確かに硝子にとって『エラー』だったのかもしれないし、その『エラー』が さらに新しい『過ち』を引き起こすかもしれない。次なる悲劇の始まりかもしれません。その危うさは劇中でも しっかりと描かれています。
それでも自分の過ちを見つめ、時にはそれを認めて謝罪し、時には感謝の気持ちを伝え、他者と心を通わせるのを諦めなければ、その『エラー』同士が響き合い、予想もしなかった救いを もたらしてくれることも あるのではないでしょうか。間違いだらけの人々が、それぞれ響き合う『声』なのだとすれば、『エラーも含めて響き合う多様な声』こそがこの世界の豊かさである、ということが本作で描かれているのだと思います。
だからこそ ラストのシーンで、将也が和解した仲間たちに「一緒に文化祭を回ってほしい」と伝えることで描かれる、彼のたどり着いた美しい情景が、現実世界を生きる間違いだらけの私たちの胸を打つのではないでしょうか。ここは原作だとラストシーンではないようですが、『将也の物語』として『聲の形』を編み直した映画版にとっては、このシーンをラストに持ってきたことは大正解だったと感じます。
予期せずに、激烈な賛否の渦の中に置かれてしまった映画『聲の形』ですが、極めて難しいテーマを奇跡的なバランス感覚によって、エンタメの形に昇華してみせた、2016年の邦画を代表する傑作であることは間違いないと思います。
普段アニメを見ない人にこそ、観てほしい作品だと感じました。
他の方の感想
これまでは個人的な感想を述べて来ました。
他者の感想も参考になるかと思いますので、Twitterから いくつかご紹介します。
話が前後してあれだが、聲の形の感想は「言葉にして伝える」のはいいと思うんだ
伝えたいという思いだけでは届かないこともあるから、やっぱり伝わるように、相手からの声も聞こえるように、語り合う方があの作品にあってる気がする #というポエム— マリオの乗り物(なま苦) (@marimono1616) 2017年10月15日
聴覚障害の友人に『聲の形』の感想聞いたら、違和感しかなかったと言われて驚いた。 やはり当事者目線だと見えるものが違うんだなー。
同じ聴覚障害を扱う作品でも、『聲の形』より、『レインツリーの国』を強く勧められたので観てみようと思う。— 眠いマン (@disabled_adhd) 2017年10月1日
『聲の形』を以前、感動ポルノという批判をしたが、改めて観てみるとそれで、蓋をしてしまってはいけない作品だと思い直した。自分が感想を述べる為の知識の閾値に達していないのだと感じた。ただ一つ言いたいのは岩井俊二監督で実写で見て観たい。結弦をどう撮るのか気になる。リリーシュシュは嫌い。
— hikohikootsu (@hikohikootsu) 2017年9月27日
ビールを飲みながら、今さら映画「聲の形」を初めて観たが、めっちゃ良い作品だった。声が聞こえない人の話で、微妙みたいな感想があったからスルーしていたんだが、普遍に共通するヒューマンストーリーやん。演出も非常に良く、作りが丁寧。泣いたわ。学校の道徳の授業で学生に観させた方が良い作品。
— エッグ・サイトウ (@ariafloat) 2017年9月22日
『聲の形』視聴
感想:いじめっ子といじめられっ子の恋という特殊な題材でとても綺麗にできていたと思う。男の子なら誰しも好きな女の子にちょっかいを出したりした覚えがあると思う。けっきょく思いを伝えきれなかったなぁという人にぜひ見てもらいたい作品だった。石田、月はちょっとw#聲の形— ulna_radius237 (@ulna_radius237) 2017年9月20日
まとめ
いかがだったでしょうか。映画『聲の形』の感想は以上です。
最後までご覧いただき、ありがとうございました!
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